小白河といふ所は、小一条の大将殿(藤原済時)の御家ぞかし。そこにて上達部(かんだちめ)、結縁の八講し給ふ。世の中の人、いみじうめでたき事にて、「おそからん車などは立つべきやうもなし」といへば、露とともにおきて、げにぞひまなかりける。轅のうへにまたさしかさねて、みつばかりまではすこし物もきこゆべし。
六月十よ日にて、あつきこと世にしらぬ程なり。池のはちすを見やるのみぞいと涼しき心地する。左右の大臣たちをおき奉りては、おはせぬ上達部なし。・・・
すこし日たくるほどに、三位の中将とは関白殿(藤原道隆)をぞきこえし、かうのうすものの二藍の御直衣、二藍の織物の指貫、濃蘇枋のしたの御袴に、はりたるしろきひとへのいみじうあざやかなるを着給ひて、あゆみ入り給へる、さばかりかろびすずしげなる御中に、あつかはしげなるべけれど、いといみじうめでたしとぞ見え給ふ。朴・塗骨など、骨はかはれど、ただあかき紙を、おしなべてうちつかひもたまへるは、撫子のいみじう咲きたるにぞいとよく似たる。・・・
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